| プラスチックは、昭和30年前後は高価な材料でした。リサイクルしても採算があって、お金もうけができてた時期もありました。
高度成長期の間、プラスチックの生産は伸び1960年〜70年の10年間で9.2倍にふくれ上がります。それはおもにバージン原料からの生産でした。しかし、一方では現在と同じように工場や流通の過程で質のよい、プラスチックが排出・回収され、安い原料として利用されつづけています。こうして物をどんどんつくり、消費は美徳、と使い捨てをあおる風潮の中でプラスチックのごみも増えつづけました。プラスチックゴミの増大とともに、処理の遅れから、廃プラスチックの処理が強く求められるようになりますした。69年には通商産業省で廃プラ有効利用研究がつくられ、焼却技術・再生利用・熱分解などについて調査した報告書も提出されています。70年の公害国会をきっかけに、71年、現在の(株)プラスチック処理促進協会の前身が設立されます。協会をはじめ、企業でもリサイクル技術の研究に積極的に取り組みました。その当時のリサイクル技術に関する研究論や特許出願件数も70年から7年の間、世界で日本はトップを誇っていました。
このプラスチックリサイクルの熱は、73年の第一次オイルショックで最初の山を迎えます。原油価格の高騰とプラスチック材料の需要増大から、廃プラが安い原料として求められました。そして79年第二次オイルショックで再び廃プラの人気は高まります。しかし、二度のオイルショックつまり不景気を経験すると物の生産は減り、自然とゴミも減って、ゴミの問題は沈静化してしまいます。また、原油が高いから止むなく走ったプラスチックの再生利用でしたが、やってみるとやはり経済性のないことが判明。80年以降、プラスチックリサイクルはあまり世間から省みられなくなりました。
日本のリサイクルが下降線を辿り始める同じ時期に、欧米各国では、新技術の特許が数多く出願され消費者団体が法規制を求めるなど、活発な動きを見せるようになりました。日本は経済性を優先させてリサイクルをあえてしなかったのですが、世界でもトップレベルの技術をもっていたので、85年頃には欧米から調査団か勉強に来たりもしました。
そうして、欧米がプラスチックのリサイクルについて法規制を打ち出したりするようになると、どうにかしなければ、と騒ぎだしたのです。しかしプラスチックの値段の高かった昔、採算が取れる場合のみ細々とリサイクルしてた時代とは違います。大々的にシステムを作つくり、会社のコンセンスを得て展開しなければなりません。
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